1995年4月から忠南扶餘地域において固定間諜が活動しているとの諜報により、間諜の行跡と根拠地を追跡していたところ、1995年10月始め、忠南扶餘郡石城面にある「正覚寺」において間諜接線の徴候を補足し、安企部及び対共要員等、10余名が正覚寺近隣において潜伏監視。1995年10月24日1400頃、正覚寺に挙動不審者2名が出現、不審検問していた捜査官と交戦し、30余分間対峙したが、同日1400頃、安企部捜査官が軍警に迅速に状況を伝播して兵力を要請、退路を遮断後、1600、出動した軍警により、「正覚寺」近隣国道上において、1名(金東植)は逮捕し、1名(朴グァンナム)が逃走し、軍・警・予備軍等、2万余名を動員、逃走間諜隠居予想地域を4線に封鎖、捜索と待ち伏せ作戦を展開し、10月27日1100頃、扶餘郡龍安面コピョン村近隣において逃走間諜(朴グァンアム)を発見、射撃を加えて検挙したが、後送治療中にに死亡した事件である。
![]() 住所:平壌牡丹峰区域 労働党社会文化部所属工作員金東植 |
間諜活動の経緯
逮捕された武装間諜金東植を当部調査室に収容し、綿密な捜査の結果、金東植は、90年5月30日、済州島甫木洞の海岸を通して1次浸透した後、南派され、「南韓朝鮮労働党中部地域党」という地下工作指導部を構築していた北朝鮮権力序列22位の最高位級間諜李善実と共に、約5ヶ月間活動したが、同年10月17日、間諜李善実及び黄仁五を帯同、江華島を通して復帰した事実があった。
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95年4月の2次南派は、国内で暗躍中の固定間諜に間諜装備伝達及び指導検閲、15年前に南派されて活動中の工作員帯同復帰と30代の運動家を包摂せよとの指令を受けて、金東植を組長に、朴グァンナムを組員にした工作組を編成し、95年8月29日、漁船に偽装した工作船便により北朝鮮南浦港を出発、9月2日2400頃、済州島オンピョン里の海岸に浸透した。
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南派間諜金東植と朴グァンナムは、9月2日浸透後、10月24日の検挙時まで、京畿道城南及び大田にある旅館を活動拠点として確保、自分達をサムプン百貨店犠牲者の遺族に偽装し、特に、北朝鮮において韓国の実存人物名義で成功に偽装した住民登録証4枚を所持して、地域及び要件により換えて使用し、ソウル・大邱・光州・京畿・江原・忠南一円を闊歩、工作任務を遂行し、ロッテ百貨店・南大門市場等の地で指令受信用中波ラジオ・衣類・時計等の工作装備を購入し、北朝鮮の指令通りに30代の運動家の包摂対象者に自分達を「北朝鮮から来た党連絡員」と明らかにし、「一緒に統一運動をしよう。」と提議する等、露骨にして大胆に政界及び在野運動家包摂活動を展開し、更に別の固諜網及び運動家包摂時に提供する目的で、大田・利川・南驪州等、7ヶ所に無人ポストを設置し、巨額の工作金と拳銃・毒銃・無線機・乱数表等の間諜装備を埋設し、無音拳銃・毒銃・毒薬アンプル等の高性能人命殺傷用装備を携帯、活動してきた武装間諜であると明らかにした。
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拳銃3挺、実弾44発、毒銃2個、 |
事件の特徴
扶餘浸透2人組武装間諜事件の特徴は、北朝鮮対南工作組織から革命第2世代出身を厳選し、徹底した以南化教育を行い、以北訛を使わず、韓国の環境に慣熟させた、いわゆる「新世代工作員」として養成した後、国内の運動家内に主体思想等が蔓延している点等を利用し、運動家に接近、北から来た工作員であると露骨に身分を明らかにする大胆にして果敢な工作戦術を駆使し、韓国の実在人物名義とされた住民登録証を使用し、過去、紛失盗難住民登録証を入手し、写真だけ貼って使用したのとは異なり、南派間諜の拇印を直接押し、コンピュータ照会でも引っかからない緻密なものと見られており、南派間諜の工作装備面でも、7〜8mから人命殺傷可能な高性能毒銃と短時間内の対北送信が可能なように開発されたメモリー式無線機等、最新の工作装備を使用しており、彼らの浸透任務は、2ヶ月間の比較的短期の対南工作であることも、米貨6万1千ドル、韓貨400万ウォン等巨額の工作金を所持し、国内全域に設置された7ヶ所の無人ポストを通して無線機、拳銃と工作金等の工作装備を埋設し、固定間諜に伝達しようとした点等、北朝鮮からは、その間、国内運動界を中心とした主体思想の蔓延と全般的な対共警戒心の弛緩現象に鼓舞され、全域を活動容易地域にし、大胆に邪魔になることのない対南工作を自ら行うことにしたことが立証された。
最終更新日:2004/03/19
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